【東日本大震災から7年】コメ作りを再開した/横田美智子さん

2018/03/11

横田美智子さんは福島第一原発の近くに田んぼをもつコメ農家の嫁。原発事故が起こり、1年余りの避難所生活を経験します。町の避難指示解除を受けて娘3人を連れて村に戻り、米作りを再開しました。

放射能の不安。風評被害のこと。ふるさとについて。横田さんに今の気持ちを聞きました。

<Profile>
横田美智子(よこた・みちこ)
1982年福島県双葉郡広野町生まれの35歳。家族構成はコメ農家の夫、長女(小6)、二女(小3)、三女(小1)。福島県内や神奈川県で1年4カ月の避難生活を経験し12年に帰還。休日の楽しみは娘3人と地元のショッピングモールで雑貨や服を見ること

「ここで生きてくもんだとずっと思って生きてきた。だから戻る。それだけです」

――福島第一原発から30キロ圏内の広野町にお住まいです。震災当日はどんな様子でしたか?

勤め先のクリニックで大きな揺れを感じました。ありがたいことに家族も家も無事でしたが、震災翌日の3月12日に福島第一原子力発電所が爆発。避難命令に従い、すぐに福島県石川町に避難しました。その後、神奈川県平塚市と福島県いわき市の公営団地で避難生活。12年に避難指示解除が出て、すぐ広野町に戻りました。


――町に戻ることを決めたのはなぜですか?

だんなも私もずっと広野の人間。どこで暮らすかを選ぶ発想なんかなくて、ずっとここにいるもんだと思ってました。避難先では娘3人も「帰りたい! 帰りたい!」の大合唱。だからうちは町に戻ることにしたんです。役場が「放射能は大丈夫。生活するうえでは問題ない」って言うのを、信じるしかないっしょ……。

実は、だんなや私ら大人はともかく、子どもについては、放射能の心配はゼロではないです。町に戻ったばかりの頃は、何人かの人から「こんな小さい子を広野に住ませて大丈夫?」と聞かれたり、子どもと行った地元のコンビニで知らない人から「子どもがかわいそう。心配じゃないの?」と言われました。

そのたび「戻ったのは大人のエゴ?」と心がざわついたり、「こんな大きい原発事故は日本で初めて起きたんだ! これからどうなるかなんて誰もわからない! 家族それぞれの考えがあって帰ってきたんだからいいじゃんか!」と頭にきたり……。正直、今も複雑な気持ちです。


――村に戻り、米作りを再開されました。

田んぼを除染し放射性物質の濃度が基準値を下回った13年からコメ作りを再開しました。町は、出荷するすべてのコメの放射線量を調べる「全量全袋検査」をしてます。うちはこれまで一度も、国の基準値を超えたことはありません。

うちのコメはうまいですよ。甘くてもちもちで、よそのブランド米に全然負けてないです。でも「風評被害」は今もあるかもしれない。原発事故の前、だんなから直接コメを買ってくれていた個人のお客さん数十人からの注文は、ほぼなくなったままです。でもだんなは、「食べるかどうかはお客さんが決めること」と言い、コメ作りを再開したことも安全性もアピールしません。

いい話もあって、町が町内産のコシヒカリをふるさと納税の返礼品にしたら、予定の1000件がすぐに「完売」したんだそうです。福島を応援してくれるかたがたくさんいるんですね。ありがたいです。

▲「全量全袋検査済」のラベルを貼り、生産者名と品種を示すスタンプを押すのは美智子さんと娘3人の仕事

▲米袋にラベルを貼りスタンプを押す作業は仏間で。鴨居には先祖代々の写真


――原発事故が起き、予想外の出来事をたくさん経験したのですね……。考え方に変化はありましたか?

地震や津波や原発事故がぜんぶ一緒にくることもあると知り、人生いつ終わるかわからないと思うようになりましたね。だから20年、30年先のことを考えすぎて、目の前にあることをおろそかにしちゃダメだなと。大事なのは、今この瞬間を精いっぱい生きること。広野でのんびり生きてきた私ですが、原発事故を経験して、考え方はだいぶ変わった気がします。

▲二女の陽葵(ひまり)ちゃんは田んぼが大好きで、庭で稲を育てる「。コメ作りの後継ぎになってくれたらいいな」と美智子さん

参照:『サンキュ!』4月号「東日本大震災を経験した人の7年」より一部抜粋
撮影/久富健太郎(SPUTNIK) 構成・文/川上(『サンキュ!』編集部)

記事を書いたのは・・・

川上(サンキュ!編集部員)

モード系ファッション誌などを経て「サンキュ!」へ。昔はファッション・エディター、今はなんでも担当。高1と小5の母で、朝5時に起きてべんとうをつくるのが日課

 
 

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