【東日本大震災から7年】ホタテ漁を再開した/安藤正樹さん

2018/03/11

ホタテ漁師の安藤正樹さんは、岩手県の沿岸部にある野田村に住んでいます。野田村も津波で壊滅的な被害を受けました。安藤さんは父の代からそろえた漁船や作業小屋、漁具など約5000万円分の財産を失いながら、震災当日から約20日間、消防団員として村民の救助や行方不明者の捜索にあたりました。

震災の前と同じ海で、今もホタテ漁を続ける安藤さんにお話を聞きました。

<Profile>
安藤正樹(あんどう・まさき)
1974年岩手県九戸郡野田村生まれの44歳。小野寺智子さんの夫。ホタテ漁師の父の後を継ぎ20歳から漁の世界に。津波のときは消防団の一員として村民の避難誘導や水門の閉鎖を担い、その後はがれきに埋もれた人たちの捜索や救助に当たった。野田村のホタテ漁師のグループ「荒海団」のメンバーでもある。現在の趣味は温泉めぐり

「体ひとつで再出発。支えてくれたすべての人に、ホタテで恩を返す」

――震災当日はどこで何をしていましたか?

自分は村の消防団員なので、大津波警報のサイレンが鳴ってすぐに召集がかかりました。まずしたのは、水門の閉鎖や住民の避難誘導。津波は黒くて巨大で、まさに壁でした。パニック映画でしか見たことのない津波を目にしたとき、「大変なことが起ころうとしている」と直感しました。

津波で親父の代からそろえた仕事道具すべてが流されましたが、まずは人命救助が最優先。津波の翌日から約20日間、がれきに埋もれた人の救助や捜索をしました。無事だった人、ケガをした人、命をなくした人。いろいろな人に触れました。

▲再建中の防波堤は完成間近。震災の痕跡はじょじょに消えつつある


――ご自分の被害は。

漁船2隻と作業小屋2棟、1000個余りの網やかごなどがすべて流され、体ひとつになりました。被害総額は約5000万円。ホタテ漁の仕事を続けるには大きな借金をするしかありません。ですが自分のことでぼうぜんとするより、とにかく捜索と救助に明け暮れました。


――津波のあと、どんな気持ちになりましたか?

最初は虚無感。人が何代にもわたり築いてきたものが、がれきの山になったことへの絶望がありましたし、身ひとつになったことも不安でした。そんな後ろ向きの気持ちを切り替えてくれたのは、村を助けてくれた人たちでした。

津波直後の救助や捜索に始まり、心と物資、お金や知恵の支援をたくさんいただいています。「◎◎県警察」、「◎◎市消防局」と、北海道から九州まで見慣れない地名が入ったユニホーム姿の警察や消防、それから自衛隊の人たち。聞いたことのない訛(なま)りで話すボランティアさん。この小さな村に日本中から人が集まり、手を差し伸べてくれていることに驚きました。

阪神淡路大震災や新潟県中越地震を経験したというボランティアさんにもたくさん会いました。人の心はこんなに温かいのか、と毎日感じていましたね。こんな日本に住んでいることは、自分の誇りだと思うようになりました。

▲仕事は夜明け前から始まる。作業の多くは船上で。強風が吹き荒れ、激しく波立つ沖合での作業は危険をともなう


――東日本大震災のあとも、日本のあちこちで大きな自然災害が起きています。

震災経験のあるボランティアさんがよく言う、「震災のとき助けてもらったから、今度は自分が返す番」という気持ちは、自分にもあります。自分の恩返しは、まずはおいしいホタテを作ること。それから野田村のホタテの価値を上げて、村のホタテ漁を盛り上げること。

災害が起きた地域や人の手助けもしたいですね。稼いだお金を寄付する、復興イベントに参加する。被災した地域に遊びに行ったり、地域でとれたものを食べるのも立派な支援。手助けには、いろいろな形があると知りました。

今あの津波を思うとき、まず浮かぶ言葉は「感謝」。生きて体が動く限り、もらった恩を返したいです。

▲ホタテの稚貝。沖合に吊るしたカゴで約2年間育てたのちに出荷される。出荷時には12センチ前後まで成長する

参照:『サンキュ!』4月号「東日本大震災を経験した人の7年」より一部抜粋
撮影/久富健太郎(SPUTNIK) 構成・文/川上(『サンキュ!』編集部)

記事を書いたのは・・・

川上(サンキュ!編集部員)

モード系ファッション誌などを経て「サンキュ!」へ。昔はファッション・エディター、今はなんでも担当。高1と小5の母で、朝5時に起きてべんとうをつくるのが日課


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