バスケ千葉ジェッツ富樫勇樹さんインタビュー「恩師に夢の舞台で恩返しを」

2020/02/18

アスリートが子ども時代を振り返り、「くじけない気持ち」や「がんばるチカラ」がどのように培われたのかを、次世代の子どもたちのために伝えます。今回は、バスケットボール男子日本代表の司令塔として活躍する富樫勇樹選手にお話を聞きました。

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<富樫勇樹さんプロフィール>
1993年7月、新潟県新発田市生まれ。小学1年からバスケットボールを始め、中学卒業後に米モントローズ・クリスチャン高校へ。卒業後は秋田、テキサス・レジェンズ、千葉でプレー。2014年から日本代表入りし、東京五輪をめざす。167㎝、65㎏。

「点の取れないチビはいらない」と苦言を呈した恩師。 夢の大舞台で恩返しを

富樫勇樹選手のポジションは「ポイントガード(PG)」。司令塔としてゲーム全体を操る重要な役割を担っています。

「高校生のころまではチームをまとめたり、パス出しがメインの選手でした。スタイルが大きく変化したのは、18歳で入った秋田ノーザン・ハピネッツ時代。両親の旧友で、生まれる前から僕のことを知っていた恩師・中村和雄監督から『点の取れないチビはいらない』とストレートに言われ、ゴールをめざす意識が高まったんです」

厳しい言葉に奮起した富樫選手は「点の取れるPG」へと変貌を遂げます。秋田、テキサス・レジェンズ(NBAのダラス・マーベリックスと契約)、千葉ジェッツと渡り歩き、2019年11月3日のBリーグ・京都ハンナリーズ戦で国内トップリーグ個人通算4000得点という偉業を達成したのです。

千葉ジェッツでBリーグ日本人初の1億円プレーヤーとなった富樫選手は1993年7月新潟県新発田市生まれ。姉と妹と3人きょうだいです。教員だった両親はバスケ経験者で、お父さまの英樹さん(開志国際高校総監督)は全国に名をはせる名将。偉大な父に連れられ、小学1年のときにミニバスのチームに入ったのがすべての始まりでした。

「バスケに関しては何も言わない両親でした。母は野菜嫌いで偏食の僕に苦労したんじゃないかな(苦笑)。父とは中学時代に監督と選手という関係になり、怒られることもありました。体育館で厳しく言われ、家に帰って普通に過ごせるほど人間ができていなかったので、背中を向けてごはんを食べたこともありました。でも父が教えてくれた『フローターシュート』という大柄な選手の頭上を浮かせるシュートは僕の武器になった。アメリカ留学を言い出したときも認めてくれましたし、ホントに感謝しかないですね」

15歳で単身赴いたアメリカ時代は3年間寮生活を送り、難易度の高い英語と格闘しながらバスケに向き合ったといいます。屈強な選手たちと互角に渡り合うために筋トレを始め、小柄でも戦えるスキルを身につけることを意識したことが、その後のブレイクにつながったそうです。

「最近は来年の夢舞台を最優先に考えています。今年のワールドカップに出られなかった分、チームに貢献したい思いは強い。両親や支えてくれたかたがたに恩返しするためにも、けがなくコートに立つこと。それを第一目標に頑張ります」。 

富樫選手が統率し、躍動する日本代表が楽しみです。

小学校の卒業文集に「将来の夢はプロバスケットボール選手」と堂々と書くほど、本気度の高い少年だった。

夢を叶えるため高校時代にアメリカ留学。「すべてが違った」と激しい衝撃を受け、人間的にも大きく成長。現在に至る礎をつくった。

参照:『サンキュ!』2月号「未来の主役たちへ Message」より。掲載している情報は19年12月現在のものです。撮影/久富健太郎 構成・文/元川悦子 編集/サンキュ!編集部

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